Odissi Dancer たら のオリッシー専門サイト -インド古典舞踊のOdissiについてご紹介します-

プロフィール・先生の紹介

プロフィール・先生の紹介

Tara's  Biography

たら プロフィール

出身  富山県高岡市

舞踊歴
高校時代、某アーティストの影響からインドに興味を持ち始め、インド関係の本を読んだり、自室のインテリアをインド更紗で飾ったり、部屋でお香を焚いたりするようになる。(当時、地元にはアジア文化を学べそうな場所はなかった。)
大学で上京後の1994年頃、カルチャーセンターのインド舞踊(バラタナティヤム)講座に通い始める。踊りの楽しさを知ったが、指導が合わなかったため半年で中断。以後、フラメンコ、バリ舞踊(3年半現地に通う)、日舞などを経て、2004年より東京でオリッシーを習い始める。数々の踊りの中でも、自分にはオリッシーが一番と確信。
2005年、初めてオリッサへオリッシーを習いに行く。
2007年に再び渡印、ODAにて本場のオリッシーを学ぶ。
2010年に帰国。富山新聞、北國新聞、北日本新聞でインド舞踊講座の講師を務める。イベントなどにも多数参加。

踊りのスタイル
2007年12月から通い始めた、インド・オリッサ州のOrissa Dance Academy(ODA)の踊りが今のスタイル。(グル・ケルチャラン・スタイル)
日々変わりゆくオリッシー界により、自身の状況も変わる可能性があるが、ODAで習った基礎は変えないでいきたい。

好きなオリッシー・ダンサー
Sharon Lowen, Madhavi Mudgal, Sharmila Biswasとそのお弟子さん達、Sharini Patnaik, Raseswari Mohanti... 
(もちろん、自分の師匠の踊りも!)

名前の由来
「たら-Tara-」という名前は、映画「カーマ・スートラ」のヒロインの名前からつけました。なんとなく響きがよかったのと、「星」という意味が素敵だったので。
後で分かったことですが、「Tara」はヒンドゥー教の女神、ドゥルガーの化身のひとつでもあります。インド人はよく神様の名前を子供につけるので、きっとこちらの方が正しいのだと思います。


先生の紹介

たらの先生 Smt.Rojalin Mohapatra



Smt.Rojalin Mohapatra


オリッサ・ダンス・アカデミー(以下、ODAと表記。)のシニアダンサー兼講師。
9歳よりオリッシーを習い始める。繊細で豊かな表現力と、しなやかな動きは、ODAのダンサーの中でもトップクラス。
数多くの外国人クラスも受け持ち、その丁寧できめ細かな指導力には定評がある。
自身もDevadasi dance and caltural Organisationを主催。後進の指導に力を注いでいる。

踊りにかける人一倍の情熱や、時間をきっちり守るインド人らしからぬ几帳面さが彼女の魅力でもあり、先生として信頼できるところでもある。


Orissa Dance Academy(ODA)について

Orissa Dance Academy(ODA)

オリッサ州の州都ブバネシュワールにあるオリッシーの学校。現地ではSrjanと並んで有名。オリッサには多くのオリッシーを教える学校があるが、生徒数ではおそらくNO.1である。

創始者はGuru Gangadhar Pradhan。(現在の代表はGuru Aruna Mohanty)
現地の子供達のクラスは平日の学校が終わった後と休日に行われていて、クラスは年代・レベルに合わせて10段階(サブジュニア・ジュニア・1年~8年)に分かれている。学期末には筆記と実技の試験もある。

外国人用には学校のダンサーがプライベートレッスンを担当。こちらは特に試験などはない。
ODA出身のシニアダンサー・ジュニアダンサーは、インド各地、及び海外でのフェスティバルで多数活躍中。

Orissa Dance Academy の詳細はこちらをどうぞ>



ODA創始者 Guru Gangadhar Pradhan

Guru Gangadhar Pradhan

ODA(並びにKonark Natya Mandap)の創始者。
6歳の頃からゴティプアのトレーニングを受ける。オリッシーはGuru Kelu Charan Mohapatraからも直接の指導を受け、その教えをODAに引き継いでいる。マルダラ・プレイヤーとしての腕も確かで、かの有名ダンサーSanjukta Panigrahiの専属プレイヤーとしてツアーを共にした。2008年、偉大なるPadmashree Awardを受ける。

光栄なことに、私はグルジーからそれまで外国人には行わなかったという直接のレッスンを受けることができた(ワークショップや、他の先生の授業中に少しだけアドバイスをすることはあったらしい)。
それは2008年の7月~8月で、9月に日本に一時帰国している間にグルジーはODAからいなくなられていた。(理由はいろいろな噂を聞いたけれど、ここに書くにはふさわしくないと思うので割愛する。ただ、そのころからグルジーの中での今後の方針に変化があり、それがきっかけで外国人にも指導をされるようになったのだと思う。)

その後、コナラクでは外国人をメインにクラスをされていたようだが、しばらくして再びブバネシュワールに学校を開設。だが、2010年10月に心臓の手術を受けた病院で容態が悪化。10月11日に逝去。

グルジーの指導は、まだ未熟だった当時の私にはもったいないほどの内容だった。グルジーから教わったことが、1年、2年経ってようやく理解できたこともいくつかあった。
人を育てることに関しても一流の方だったと思う。だからこそODAはここまで大きく成長したのであろう。
できることなら、もっとグルジーの 指導を受けたかった。


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