Odissi Dancer たら のオリッシー専門サイト -インド古典舞踊のOdissiについてご紹介します-

オリッシーについて

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オリッシーの歴史

オリッサ州

インドには多くの民族舞踊とよばれる踊りがあります。
インド東部のベンガル湾沿いに位置するオリッサ州、そこに古くから受け継がれてきた踊りがありました。それを今日ではOdissi(オリッシー)と呼んでいます。

現在のオリッサは州都ブバネシュワール。
世界遺産コナラクのスーリヤ寺院、インド4大聖地と言われるプリーのジャガンナート寺院などインド人にも人気の観光地が有名。
オリッサでは人口の4分の1が少数民族であると言われ、山間部では豊富な資源(主に鉄鋼関係)を巡って争いが絶えない。教育水準もインドの中では低いことで知られている。
産業では、銀細工や織物などの手工芸品が有名である。

オリッシーは、インドでも最も古いダンスのひとつです。
オリッシーの型は2000年以上も前から伝わるもので、それはNatya Sastra(紀元前2世紀~2世紀)とAbhinaya Chandrika(12世紀のダンステキスト)を基にしていると言われています。

ここで、オリッシーがどのように今日の姿になったのか、オリッサの歴史とともに見ていきましょう。

注:資料を和訳する上で、日本語の自然な言い回しにするために意訳した所もありますし、私の語学力の不足による間違いがあるかもしれません。
間違いに気づかれた場合、指摘していただけると助かります。

Odissiの歴史

紀元前2世紀 King Kharavelaの時代
ジャイナ教の洞窟に、最も古いダンススタイルの歴史的証拠が見られる。
6世紀までは、オリッシーに見られるような、反らせた腰、かしげた頭、丸い手の形などの独特のスタイルの聖像学的証拠は見つけることが出来ない。
オリッシーは、オリッサの宗教の動向と切っても切れない関連を持ちながら、仏教、タントリズム、Saivism(シヴァ神信仰)、Vaisnavism(ヴィシュヌ神信仰)の痕跡を見せている。形だけではなく、メッセージとして伝えられるものにも。

6世紀 Mahayana Buddhismが栄える
この宗教では美を尊重し、建築、音楽、ダンスが奨励された。
ダンスは単に美的なものであるというだけでなく、魂の救済という意味もあった。建築はスピリチュアリズムに気品(grace)と力強さ(vigor)を融合させた。
これは、時代を通してオリッシーの特徴として残っている。

この時代、有名なヨギニpithasの登場でも、タントリズム(Brahmanical Tantrism)の影響がうかがい知れる。
ダンスの抑制性がヴィシュヌ神信仰の影響とNatya Sastraの古典的テクニックの正確さを見せる一方で、感性に訴えかける様は、タントリズムに由来する。

6~7世紀 Sailodbhava王朝 中央・南オリッサを統治

シヴァ寺院

支配者たちは、ブバネシュワールにBharateswar、Laxmaneswar、Satrughneswar、Parasurameswarという有名なシヴァ寺院を建設、それはダンサーや踊るシヴァ神のパネルで覆われた。

8~10世紀
仏教とシヴァ神信仰の流行により、寺院はあちこちで急速に発展。これらが後に、オリッシー独特のダンススタイルの特徴が見られる証拠となる。

マハリダンス

11世紀
仏教が衰退し、Brahmanismが出現。これによってヴィシュヌ神信仰が浸透する。
結果、オリッシーを形成する中で欠かすことの出来ない役割をになうジャガンナート神への信仰を起こすこととなった。
Kolavati DeviはBrahmeswar寺院にダンサーを捧げ、これがオリッサでのデヴァダシ(神に仕えるため、未婚の女性が寺院の中で生活する)システムの正式な始まりとなった。
デヴァダシ(オリッサではmahari-マハリ-と呼ばれる)は10世紀から15世にかけて高い地位を確立し、その芸術を発展させた。

12~13世紀
Anangabhimadevaはジャガンナータ神へのダンス奉納のため、Natamandira(寺院の中に建てられたダンスホール)をプリーの寺院に持った。

12世紀
詩人Jayadevaの出現。彼の代表作「Gita Govinda」はダンサーたちによって演出され、オリッシーはその栄華の頂点に達した。
聖像学的証拠も、ダンスフォームの独自性のより良い進化を示している。Rajarani寺院やBrameswar寺院の壁に見られるダンサー達の彫刻は、とても明快なポーズを見せている。
さらに、はっきりと認識できるのは、際立ったトルソの動き、丸い腰の強調、人を魅了する美しさを放っていることである。

1568年 オリッサがムスリムよって侵略される
Afghan Muslimは、ヒンドゥー教徒にとって神聖視されるものはすべて破壊した。ダンスを含むすべての寺院での儀式は取り止めとなった。
Ramachandradevaが王位につくことにより、マハリダンスのようないくつかの慣習は、18世紀の半ばまでの激動の時代を通り抜けるために新たに作り直された。
この時期、芸術にパトロン(経済的後援者)はいなくなり、マハリ達は宮廷に働き場所を見つけたのだが、それは妾になったのではという連想のために、それまで受けていた敬意を失うという結果となった。

1600年までに、女装した男性ダンサー(gotipua-ゴティプア-)が目立つようになった。これは、外国人の侵略の結果であろう。
Sakhi bhavaへの信仰もまた、女装した少年を使用することを薦めた。すべての人類は女性であり、ただ一人クリシュナだけが男性であることを証明するために。
寺院をムスリムの侵略から守るための男性をトレーニングするために作られた運動場は今や、若いゴティプアたちのアクロバティックなダンスをトレーニングする場所となった。

ゴティプアダンス

寺院でのマハリダンスはMarathasによって、1803年のイギリス統治以前の50年という短い期間に復活した。
イギリス統治の間、マハリダンスもゴティプアも、次第に不名誉なものと成り下がってしまった女性ダンサーの家などで微かに生き残ってきた。その汚名は今でもオリッサに根強く残っている。
オリッサのことわざで、”Salaja bae nirlaja gae/ ar behia je nacaku jae" とあるが、これはある学者が大雑把に訳したところ、「こっそり楽器を演奏するもの、恥じらいもなく歌うもの、恥知らずのすべてのダンサーたち」という意味だそうである。

20世紀の初めまで、ダンスは口伝えの伝統として研究者達の間に残っていた。彼らはサンスクリット語のダンステキストの存在を知らなかったため、ダンスの型を構成するテクニカルな専門用語抜きとなり、動きのパターン、体のポジション、手の動きは曖昧になり、消えかけてしまった。

マハリの場合、ダンスは母親から養女に伝えられ、ゴティプアでは先生から少年達へと伝えられた。マハリによるダンスは(歌は今日まで残っているにもかかわらず)、女性ダンサーが不名誉なものとなった独立後、ジャガンナート寺院では完全に廃止された。

パトロンの不足が、オリッサの寺院でのゴティプアダンスの存続をも難しくさせた。そして経済的切迫が、若いゴティプア達をjatras(大道芸人)へ動かした。彼らは生活費を、演劇の幕間に踊ることによって稼いだ。
こうしてオリッシーは、寺院からステージへと動き始めた。

Odissiのグル達

1930年代後半から40年代前半、貧困によりマハリに受け入れられトレーニングを受けたある少年が、マハリ制度の廃止によって劇団に加わることとなった。ダンスと音楽の素質を持つこの少年、Pankaj Charan Dasは、Annapurna Theatreにたどり着くまで劇団から劇団へと流れ歩いた。
そこで彼は、Kelu Charan Mohapatraと Laxmipriyaという2人の少年に出会い、彼らをトレーニングし、高い名声を得たダンスドラマVasmasuraを作った。その中で彼自身はVasmasura 、Kelu Charanが Siva、Laxmipriya はMohiniを演じた。Kelu Charanの演技は多くの人に賞賛され、それが、彼に今与えられている国際的な評価をもたらす経歴を始めさせるきっかけとなった。

Pankaj Charan Dasは、その独創的なビジョンで、マハリの伝統的なステージから世間に受け入れられるダンスフォームを再編し続けた。そしてそれを、マハリ、そしてマハリとして非難された彼自身と区別するため「Odissi」と呼んだ。

また別のダンスを愛する少年、Deba Prasad Dasは、裏方として、そして後にダンサー、喜劇俳優として劇団から劇団へとさまよった。New TheatreでPankaj Charan Dasと出会い、後に同じくAnnapurna Theatreに加わった。4人目の少年Mayadhar RautはOdissi Theatre に加わり、後にカタックのAnnapurna Theatreに引き寄せられていった。

オリッシーの4人の伝道師Pankaj Charan Das、Kelu Charan Mohapatra、Deba Prasad Das、Mayadhar Rautは、それぞれがダンスに対する情熱を持ち、貧困の中、彼らの愛する芸術の研究には困難な状況の中でもがき苦しみ、ステージクラフト(演出)という分野に身をおいた者として知られている。

オリッシーは寺院からステージへと移行し、演劇の道具として以外はいくらかのスピリチュアルな価値を失ってしまったけれど、この4人の偉大なダンサー達がカタックへ集まって行ったことと、劇場での試みがなければ、芸術として後世に残っていくことはなかっただろう。





  今現在、オリッシーではケルチャラン・スタイルとデバ・プラサッド・ダス・スタイルという2つの大きな流派が主になっています。
4人の伝道師は全員亡くなられていますが、最も有名なのはグル・ケルチャラン・モハーパトラ(Late Padmabibhushana Guru Kelu ChalanMohapatra)で、彼の作った演目は今でも多くのダンサー達に踊り継がれています。
彼の学校はSrjanといい、今も息子さんが運営されています。
私の習ったODAは、このグル・ケルチャランから教えを受けた私のグルジー、グル・ガンガダール・プラダーンが約26年前に設立した学校です。(2011年現在)

Odissiのグル達

サンバルプリー・ダンス

オリッシー以外にも、チョウ(chhau)というインド東部(ビハール・オリッサ・ベンガル地方)に伝わる踊りや、サンバルプリーと呼ばれるフォークダンスもオリッサの民族舞踊と言える。

あとがき
今でもインドの有名な寺院では、外国人や異教徒の入場を禁止するところが多くあります。(プリーのジャガンナート寺院もそのひとつ)それには、こういった歴史的な背景があったのです。
私がオリッサ滞在中、現地の人に「どうしてここに来たの?」と聞かれ、「踊りを習いに来ました」と答えると、鼻で笑われたことが何度かあったこと。当時はものすごく憤慨しましたが、オリッシーの歴史を知ることによって理解できました。

今ではダンサーに対する偏見も少なくなってきていると感じます。それは、偉大なグル達の貢献、素晴らしいダンサーや音楽家達の活躍によるものでしょう。習い事としてオリッシーを習う子供も、20年前よりは格段に増えてきているようです。
ヒンディー映画に出てくるようなムービーダンスが流行る中、オリッサの人達の中には、オリッサの古典舞踊であるオリッシーを見たことがないという人たちも大勢いますが、その高い芸術性を評価する外国人が大勢オリッシーを習いに来るようになりました。

これからもますますオリッシーが繁栄しますよう、少しでも多くの方にオリッシーを知っていただけるよう、微力ながらここに資料としてオリッシーの歴史を載せることにしました。
最後まで読んでくださってありがとうございます。


オリッシーダンスの基本、オリッシーの演目の内容、オリッシーの美しい衣装について、こちらでご紹介しています。

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■参考画像
 ・「THE ODISSI DANCE PATH FINDER VOL.Ⅱ」
■参考文献
 ・「ODISSI DANCE」
オリッサの歴史に関しては、ある文献を参考にしていますが、すでに絶版となっているもので私の手元には表紙のないコピーしかありません。
そのため本のタイトル・著者名が分かりませんことをお詫び致します。


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